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15周年企画 エアロノーツのひみつ Vol.3【最終回】
◆◆◆ 松下隆也氏(ex.Huppy Under River、ex.Limited Express(has gone)、現bloom field)からのメッセージ


【物件名】エアロノーツ
【築15年】鉄筋/耐震対策万全でブレません
【交通】 とっても身近です
【エアコン】 暖房のみで熱いです
【心の駐車場】 有ります
【その他】 オートロックンロール完備
【備考】 築年数は経ってますが、まだまだ新築には負けない建物となっております
     一度観に来てもらえると魅力がわかります

こんなんでどや?





2005年11月
、aeronautsは誰にも呼ばれてないのに大都会東京に活動拠点を移動しました。

引越しは森川くんが当時働いてた会社から4トントラックと運転手の方(なんとかさん)(訳注:山本さん)を拝借して粛々と行われました。トラックが一人一人の家をまわって荷物を搬入していったのですが、やっぱりというか案の定荷造りが全然終わっていない池ポン宅の時が一番時間かかりました、想定内ですね。

上京したころいきなりツアーに出たんですよね。ツアーといえば、2nd album「RIDE」の時のツアーが印象に残っています。南は九州鹿児島から北は北海道札幌まで、日本各地を点々とまわるaero史上最大のツアー、ドサまわりでした。
バンドがツアーに回りだすのに慣れてくると、ライブ以外の楽しみに気づきます。その一番はやっぱり食べ物ですね、そーですね。普通の人なら旅行する時には真っ先に求めるもの、それが食事です。昔大学生のころ中国の北京に行ったんですが(北京原人も、いや池ポンも一緒)、そこでオレらが入った店が悪かったのか90%の確立で食事が最高に不味く、旅行のテンションだだ下がり、二度と北京なんかに来るかー!アホー!という苦い経験などもあったので、食事は本当にツアーの出来不出来を左右するのだ!と言っても過言ではないくらいなのです。そのあたり、情報収集、処理能力はやっぱりリーダー森川くんの実力がハンパなく発揮されます。あとの3人はぞろぞろと彼の後ろをついてまわるだけですね。ここうまい店らしいで?的に。
鹿児島の豚もうまかったし熊本では馬のタテガミも最高だったし博多のモツ鍋もあにいわんや、四国香川のうどんは別の食べ物かと思うほどだし仙台ではマグロのド頭はほじくりまくったし、本当にライブをしに行ったのかとこれを書いてて思うほど食いしん坊ツアーでした。





でももう一つ、普通の人達とは違うところがあります。さーて、どーこーだ?
はい、正解!そうです、ぜーんぶ車で移動なのです。これが案外きついんですね。特に思い出深いのが仙台からの札幌の行程です。年表の方にもその時のアクシデントが書いてありますが、ちょうど仙台でライブあった日に台風直撃、予定ではフェリーで北海道入りということでフェリー乗り場までいったのですが「The 欠航」的な感じで窓口のシャッターが完全に閉じてました。それなら青森まで行ってフェリー乗るか?ということでバカ4人組は走り出した(台風も北上するのに)んですが、どしゃ降りもどっしゃブリ、東北高速道路も途中で通行止め、下道を法定速度無視しまくりでなぜか山道も突っ走りつつ3時間以上かけて真夜中青森港に着いて海をのぞんだら、なまらでっかい波がザパーン!ドバーーーーーーーン!
・・・マンガですねもう。その日は打ちひしがれてカプセルイン。次の日車を青森に置き去りにして電車で札幌に入りましたとさ。(オレはこの時まで知らなかったんだけど、青函トンネルは電車だけなのね?
とにかく車移動は何かとアクシデントがつきものなのですがaeronautsはけっこう順調な方ですよこれでも。たまには朝方のすげーキレイな風景とかにも遭遇するし、富士山はいつ見ても雄大だし、パンクも事故もガス欠もないし。本当に神様ありがとうございます。オレの大好きな人達をいつも守ってくれて。





そのツアーも終わって帰る家が東京ってことで、まだその感覚に慣れてないオレらはちょっと戸惑いました。しかもオレと池ポンは同居してたんですねー。けっこう、いやかなり面白かったですよ、前にコラムにもエピソード書いたりしたけど。小さいネタでは、なぜか池ポンが中華鍋を買ってきたのにはウケました、まだ他にないものたくさんあるのに。

ギャグみたいな生活をしている中で(もう31才は越えている)、音楽活動もちゃんとしてました。当たり前だけど。そこでけっこう早い段階でwash?に出会ったんですね。

怖そうな人達ですよね、初見の段階では。
だって長髪に坊主にゴリラに巨漢にって4拍子そろってますよね。しかもあんなにでかい音出しやがって。いやお出しになって。オレら的には、転校してきたらその学校の番長になんかわからんけど気に入られて「はぁ、よろしくっす」みたいな感じだったんすかね。こんなこと言うと怒られそうだけど。
そして「猿犬(Enken)」っていうイベントを立ち上げたわけなんですね。もう12回くらいやってます。
その途中で沖縄ツアーもありました。浦添のライブハウスのオリオンビールを全部飲み干してやりました。個人的にはやっぱり上京してきてすぐにあったwash?のワンマンライブでしょうか?東京が大雪の日でしたね。あのライブは圧巻でした。今はもっと良いけどね?





2年くらい前でしょうか?なんか様子が変だなーと思ってたら池ポンが神妙な顔してバンドを辞めたいって言い出した。
オレら4人は長いこと一緒に居過ぎてお互いに対して寛容になってた部分もあるし冷めてた部分もあった。だから池ポンがそう言い出した時は誰もとめることができなかった。今思うと本当に情けない。

そしてその時点でaeronautsは解散だったんです。「それなら止めようか」って。

それで解散の件を、前述のwash?の奥村大氏に報告に行った時。彼は下北沢440で弾き語りライブの日。ライブも終わった後オレはかけつけたら、そこにはいるはずのない池ポンが先に来てた。しかも奥村大に説教されてた。
「お前、なんでお前が一番カッコイイことやめるんだよ?普段の生活でカッコイイことなんて一つもないくせに」
って意味のことをガーガー言ってたような気がします。それはそのままオレにも一つの弾丸となって胸に刺さりました。小学生のころ好きだった漫画に「硬派銀次郎」(著・本宮ひろし)ってのがあって、その中のセリフで「男はいつもは泥みたいな色でもいいんだよ、いざって時に黄金色になればな」っていう北方謙三ばりのヤバイセリフがあってオレはそのセリフが今でも大好きで。奥村大の言葉はオレのその感情にリンクしたんだろーな、伝わりにくいかもしれないけど。バカにされるかもしれないけど、男って結局そういうことなんだと思います。言葉には何もできないけど、その想いだけは伝えたいみたいな。オレらは結局カッコイイと思うことに全精力をそそいでいるんだよね、かっこ悪いと思うことは絶対したくない。だから未だに「27才くらいだと思いました!」とかしょーもないことを言われたりするんでしょうけど。でもその時池ポンが辞めたいって言った気持ちも分からなくもなかったり。それぐらい一緒にいたから。だからこそ奥村大の言葉はオレ自身を責めてるようでもあって、それ故に心に深く突き刺さったんだろーなぁ。
あ、あと同じくらい大好きなセリフで漫画「スラムダンク」の中で主人公・桜木花道が言った「オヤジの全盛期はいつなんだよ?全日本の時か?・・・・・・オレの全盛期は今なんだよ」ってのがあります。これ書いてるだけで涙が出てきそう。これはいつでも全盛期のつもりでやれよ!ってことですね。ホントどちらも素晴らしいセリフです。ちなみに個人的には漫画版「AKIRA」が大好きです。かーねだぁあああーーーーーっ!!(by テツオ)









どーでもいい話になりましたね。でもまあ奥村大に説教された池ポンがその2秒後に「んじゃあ、やっぱりバンドやるわ!」って言った時はその場にいたオレと森川クンは吉本新喜劇ばりにコケました。
その後、その話を聞いた北出は「どないやねーん?!!」と憤慨したのは言うまでもありません。

そして「Ready Made」「Hello World」とリリースしました。「FUNKENSTEIN」のPV撮影は首都高で歌いながらガンガンマジ運転させられました。あの時は相当テンションあがってスピード出まくりましたね。「Ready Made」の中に「in bloom」という曲があるんですが、最後の歌詞で「I don’t wanna die!」って連呼するところがあるんですが、この時分死にたくねー!と真剣に思ってたみたいですね。






とまあ、ここまでaeronautsの歩みを長々と思い出し書いてきたんですが、もーう十分でしょ?!!

もともと思い出づくりとか「〜が楽しかったです!」とか何かに関して意味づけるのが大嫌いなオレにここまで書かせたらさー。
aeronautsは終わったわけでは当然ないし、終わるつもりも毛頭ないし。
ずっと続けばいいーじゃん。やめたくなったらやめるし。誰に指図もされないし。
オレはこのaeronautsの物語をここで美しく完結させる気は全然ない、っていうかさせてはいけないんだ。面倒くさいわけじゃないぞ!!なぜならオレらの歩く道はまだまだ先が長いから。そりゃ確かにいろんな素晴らしい人達に出会ったしヒドイやつにも出会ったし、本当に全てのことに感謝してる。だから最後に言うことは「今まで本当にありがとう。そしてこれからもずっとオレらを愛してください」ってこと。


だから


2011.3.4 (Fri)


下北沢club251のaeronauts15周年記念、愛と魂のみのワンマンライブに集結せよ!!




待ってるぜーーー





少しの間ですが駄文におつきあい頂き、本当にありがとうございます
このコラムを読んでくれた人、全てにご多幸あることを祈って。。。

Text by Gendai
校正 by Morikawa


◆◆◆ 寄稿(奥村大氏からのメッセージ)

どうもwash?のオクムラです

友人から唐突に「なんかコメントくれや」と飲み屋で言われた
酔っぱらっていた俺は「もちろん」と二つ返事で引き受けた

当然のようにすっかり忘れてた二日酔いの翌日
と言う訳でコメントよろしく
と念押しのメールが来た



俺は困っている

aeronautsの何について書けばいいんだ?
ワンマン?リリース?それともバンドそのもの?
その情報すら持っていない

でもまあいいか
そこも含めてのオーダーなのだろう
迎え酒がわりに書き始めてみる
わはははは



mylife-Asdogを聴いたのは偶然だった
ライブバージョンだったその音に触れた時のことを俺は忘れない

やった 見つけた  俺たちと全く同じ匂い
すごく興奮したのを思い出す

素晴らしい音楽
そんなものはただの大前提
誰にだってできる
きちんと音楽と向き合って命を張りさえすればね

そこに鳴っていたのはそれ以上の

根拠などまるでない圧倒的な自信
そして
この世界の流れと寄り添いながらも決して近づかないへんてこな距離感

奴ら孤独なくせに突き抜けていた


勝手に世界を相手に孤軍奮闘気分だった俺は目を覚まさせられた

奴らにあって俺にないもの
沢山あるけど
それらをひとまとめにして無理矢理にでも言葉にすれば
陳腐だがそれは
自由
みたいな感触

それにやられた


すぐに南波に聴かせて
ふたりでココロの底から腹を立てた

大抵の男は自分たち以外のかっこいいものにはムカつくもんだ

あんまり悔しいから友達になり
自分たちのイベントに呼んだ
やっぱり素晴らしくてムカついた

内緒でチケット買って何本もライブを観に行った
世の中がひっくり返るようなライブをやったと思えば
金返せ!と胸ぐら掴みたくなるようなライブもあった
その当たり外れの波の大きさも最高で腹が立った


何本ライブ見ても本当にムカつくから
一緒にイベント 猿犬 ENKEN を立ち上げてみれば
猿犬の時は毎回信じられないようなライブぶちかましてくるし

いつまでたっても奴らにしかできないぶっ飛んだ曲しかつくらない(SUNSETとかHello WorldとかThank U Soldierとかまだまだいっぱい)

腹の虫が一向に収まらないまま
今に至る


aeronauts先輩
結成15周年おめでとうございます
これからもよろしくお願いします
ムカつくんじゃお前ら!


世界で一番のaeronautsファンより
| 管理人さん | 23:52 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
活動年表(2000~2011)
15周年企画
aeronauts 活動年表 (2000~2011)


2000

ワーナーインディーズよりワン・ショット契約でアルバム「AutoMeal」をリリース。
初アルバムリリースにともなって、全国各地を初ツアー

Memo
初博多に上陸。ライブと店周りが忙しく、一番の楽しみであった「とんこつラーメン」はライブ打上後に・・・打上にて飲みに飲まれたK氏は車で寝てしまい、広島辺りでお目覚め。そこで一言、「俺、何しにいったんや〜」(家康語録1)


心斎橋SUNHALLにて「AutoMeal」初ワンマンライブ

Memo
森川、メインのギターをフェンジャパからオールドのジャズマスターに変更する


2000年の出来事
 流行語:おっはー(慎吾ママ)、最高で金 最低でも金(田村亮子)
 二千円札が発行
 新潟少女監禁事件、世田谷一家殺人事件
 BLANKEY JET CITYが解散



2001

レーベルを「ときおらレコード」に移籍。セカンドアルバム「9(ナイン)」をリリース

ローディ。兼ドライバーのNが移動中に機材車をベンツに当てる。メンバー、外車のメンテ価格の恐ろしさを身を持って知る。ちなみに相手は普通のお金持ち、ラッキー?

十三FANDANGOにてワンマンライブを行う。

2001年の出来事
 流行語:ヤだねったら、ヤだね、DV
 ジョージ・W・ブッシュ米大統領、小泉純一郎首相が就任
 「えひめ丸」が米海軍の原潜艦と衝突(えひめ丸事件)。
 アメリカ同時多発テロ発生


2002

大人の事情でレーベル担当Dィレクターが変わりバンド名「gyaractica magnum」に表記を変更。

Memo
森川、小説書きの真似事を始める。

松山・森川は次作品のレコーディングのため、東京−大阪間を激しく往復する。
「この交通費と時間があったらスタジオ何時間借りれんやろ?」(森川談)

3rdアルバム「Under the innocent sky」をリリース。このアルバム今でもちょっと好き(メンバー談)

心斎橋MUSEにてワンマンライブを行う。

2002年の出来事
 流行語:タマちゃん
 雪印牛肉偽装事件
  金正日が首脳会談で拉致事件を認め謝罪



2003
2nd シングル「Anything But A Girl Dancing」をリリース。
オリコンインディーズチャート5位にランクイン!

Memo
知人のバンドマンの結婚式に来賓としてライブ。ねるとんゲームにて北出が参戦。
告白タイムで一言「金はないけど、心は錦!」(家康語録2)
後にしっかりとねんごろになったとか、ならないとか。


試行錯誤の末、アーティスト名を「aeronauts」に改名。
当時のなんちゃってエモ・ロックブームとあいまって

1stシングル「Electric Star」をリリース。

2ndシングル「Anything But A Girl Dancing」をリリース。


2003年の出来事
 流行語:なんでだろ〜(テツandトモ)
  朝青龍がモンゴル人初の横綱に
 アメリカ・イラク戦争勃発
 thee michelle gun elephantが解散



2004

1st アルバム「WASH」をリリース。この当時アーティストwash?の存在は知らない。
全国ツアーを行う。

Memo
「Happy Under River」とカップリング・ツアー@
九州。 夜走りの車内、隣のモジャオ(安井淳)が寝かせてくれず、へとへとになって健康ランドに泊まる。無防備に寝てしまった北出の財布と高価なMP3プレイヤー の入ったポーチが盗難される。ムームー(施設の部屋着)を来たまま、さまよう北出の姿はそのまま伝説に・・・。警察にて届出を終えてから一言「安心したら、何か○○○起ってきたわ〜(訳注:エレクト)」(家康語録3)盗難品は返って来なかったが、ライブは鬼気迫るものがありましたとさ。


ガンバ大阪の公式応援コンピCD
「UnResting Weekend-ガンバ大阪スタジアムサウンドトラック」に参加
 Anything but a girl dancinを収録

10/13
3rdシングル「EVERYBODY LOVES YOU」をリリース

11月末
活動拠点を東京に移すべく、メンバー4人一緒に四トントラック1台に荷物まとめて上京する。

2004年の出来事
  流行語:チョー気持ちいい(北島康介)
  自衛隊がイラクへ派遣
 NHK紅の視聴率が史上最低となる
 イチローが最多安打記録を更新


2005

CLUB251ライブイベント・コンピLive Rally2に参加。収録曲は「My Life as-dog」、「blue」
参加アーティストはMilco、ChesterCopperpot、MU-NYA、BITE THE LUNG

2005年の出来事
  流行語:想定内(堀江貴文)
 JR福知山線脱線事故、JR羽越線脱線事故
 iTunes Music Storeが日本でサービス開始
 カトリーナが米国フロリダ州に上陸


2006

2ndアルバム「RIDE」をリリース。倉庫を改造したレーベルの自社スタジオにて、レコーディング。DRUM北出曰く『ドラムをキッチンに置いて録ったらこんな音になりました。(笑)』
全国ツアーを行う。

Memo
初北海道では特大の台風にぶち当り、フェリー船が欠航。
青森まで夜走りしたが朝になっても船は出ず、メンバー一同電車にて札幌へ。散々な目にあったけど、雄大な自然と至高の駅弁を食しながらゆるり旅気分の北海道ツアーじゃった。
(家康氏談)


2006年の出来事
  流行語:イナバウアー(荒川静香)
 ライブドア事件
 マンション耐震強度偽装問題
 U2がグラミー5部門受賞



2007

wash?と共同自主企画イベント猿犬を立ち上げ、3月に「猿犬 其の一」を実施。
ゲストはTHE FARMERS

Memo
3 月に大阪にライブへ。運悪く大雪の日。慣れていない都会っ子のaeronautsは一応チェーンだけ買って出かけたが・・・敢え無く凍った道路に車が立ち 往生。登りで車輪が空回り。慌ててチェーンを巻こうにも、悪戦苦闘の3時間。寒いわ、びちゃびちゃになるわ、警察に急かされるわ、後ろの車に迷惑かける わ。惨めやたな〜
(家康談)



2007年の出来事
  流行語:どげんかせんといかん(東国原英夫)
 年金記録問題
 着うたフルがCDシングル売上を超す
 イチロー選手が日本人初のMVP



2008


水面下でaeronauts解散・休止問題が勃発。
様々な人達の説得のもと、沖縄に猿犬で行くことが折衷案として成立。
かくして猿犬ツアー「〜Go Wild Go West〜 」を敢行。


2008年の出来事
  流行語:グ〜!(エド・はるみ)、アラフォー
 中国製ギョーザ食中毒問題
 リーマン・ショック
 イージス艦あたご衝突事故
 小室哲哉氏が逮捕



2009


所属レーベルをはなれ、完全自主制作盤3rdアルバム「ReadyMade」をリリース
ツアーを行う。


2009年の出来事
  流行語:政権交代
 オバマ氏が黒人初の米合衆国大統領に就任
 ウイグル騒乱
 北朝鮮、ミサイル発射実験を実施
 忌野清志郎氏・マイケル・ジャクソン氏死去



2010

共同猿犬が10回目を迎えることを記念し
猿犬ツアー「2010 Born! Baby! Born! 」を敢行。


2010年の出来事
  流行語:ゲゲゲの〜
 30年に1度の記録的猛暑
 オリコン年間TOP10内にはAKBと嵐だけ
 尖閣沖巡視船接触自己とその画像流出
 チリ鉱山事故


2011

4thアルバム「I AM O.K.」をリリース
リリースツアーを予定


2011年の出来事
エジプトで独裁政権が倒れる
NZで大地震発生
あとは未来
| 管理人さん | 13:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
15周年企画 エアロのひみつ Vol.2

ストリートライブ。それはなかなか過酷なものでした、今思うと。www



でも始まりは単純明快で、ライブハウスにお客さんをガンガン呼びいれよう!的な発想で始めました。
学生時代のサークルから余り物機材と自前の発電機を使って、大阪駅前の大陸橋の上で今と変わらぬ爆音を鳴らしました。真後ろには電車が走るシチュエーション。
自分たちだけじゃ面白くないんでCRAM-BOというバンドと毎週金曜日、4年か5年くらい欠かさずやりましたね。まあストリートライブやるんなら新しい音源つくりましょーかと、「夕凪」っていうデモテープを作りのぞんだわけなんですが、初めてやったその日からわんさか人が集まっていただきまして、30本くらい持っていった売り物が完売!
笑いがとまらない!!
こんなに受け入れられるものかと。調子にのって次の週には50本くらい持っていきました。だいたい毎週30本くらい空のテープを日本橋に買いに行ったねー、北出さん!









そこからは汗が止まらないくらい暑い日も、指が全く動かなくなる寒い日も休まず毎週毎週毎週毎週・・・・・・・・やりつづけました。楽しいことは楽しかったんだけど、自分たちの体に、来てくれるお客さんに、ここに来れば必ずいるってことを定着させることに執着してたのかな。










((ちなみにCRAM-BOというバンドのボーカルギター小野ダイスケはうちの北出が20才くらいのときに「スパイス」というバンドを組んでた人で、かなりの狂人。笑える意味で。いや、人間として尊敬してますよ。
初めて会って打ち合わせをしたファミレスで、「これちょっと見てくれん?」と言って素晴らしいマジックを披露しだしたフラメンコギターリスト。素敵すぎっ!!)

そしてその間に警察の方々にも何度かお世話になりまして、今では大阪駅前のその陸橋の目の前に交番ができたらしいです。


ストリートツアー!なるもの、ただ単に遠足したいだけ?も定期的にやりました。
京都三条河原では名物の等間隔カップルの間に入って爆音を出しましたし、姫路の駅前ではメチャメチャ無視されましたし、奈良公園では鹿を相手にライブしましたし、京都駅前では2秒で警備員に止められましたし、神戸の三宮駅前ではplaneと一緒にやったなぁ。そうそう、あまりにも人がたくさん集まってくれるので、東京から来たバンドにも「そんならストリートもやれば?」みたいな感じで一緒にやりました。そのころの仲間は今でもつながってるから面白いですね。



@奈良公園




@三宮おっぱい山公園



そうした地道な活動と呼応して、東京の事務所さんにお世話になった時期でもありました。
配りに配ったデモテープにレスポンスいただいて、ギャラクティカマグナムの1st album「Automeal」、そして2nd album「」を発売しました。聞いたことない人は絶対聞いてください。アマゾンか中古CD屋くらいにはあると思います。
とにかくこの頃、バンドにとってかなりの激動バブル時期でしたね、笑えるくらい、メジャーにもいってないのに。



年齢はすでにこの頃27か28才くらいになってたでしょうか?
うまくいけばこのあたりでメジャー街道まっしぐら!だったんですかね?


でもオレの心の中には違った思いが生まれてきてました。オレの歌はニセモノだ。ほんまもん歌いたい。歌いたい。今頃思ってどうすんねん?でも歌いたい。よし、そーいう歌をつくろう。今から。そしてほんまもん歌うにはほんもんの音を出すバンドを探して友達になろう。ほんまもんを知らなければほんまもんにはなるまい、勝てるまい。もうメジャーとかインディーとか関係あるかい。カッコイイ音出すやつらにそんなもん関係ない。オレは何がやりたいんや?ロックだ。こうなったらいくしかない。オレの歌詞がわかりにくい?知るかボケ、お前が不感症なんじゃ。オレは何でも言葉にするぞ、給料もらってるわけやないしな。プロっぽいライブしろ?7割くらいの力でライブしろ?サングラスかけろ?笑わないで歌え?ミスチルみたいな歌詞かけ?とにかくいらないものは全部捨てよう、ここからは音楽しよう、ロックしよう。バカになろう、ピエロになろう。本当の歌を歌う凡人になろう。オレは特別じゃない。これといって特徴もない普通の人で、オレが思うことは誰もが思う。そこにオレが歌う意味がある。そのためにオレはロックしたい。自由自在にロックだ。何小節目がどうでとかどうでもいい。とにかく、とにかく・・・・・・



はい、aeronautsの誕生です



オレ的内面旅行はそれぐらいにしといて、そういう訳でカッコイイバンドを探しに大阪中のライブハウスに通いました。今までの関わってきたところとは別世界のシーンてやつですね。そこで人生のアニキたちに出会うわけです。そう、HAPPY UNDER RIVERとジャカランタンです。aeronautsフリークならもう説明いりませんよね。オレもしません。この人達に出会って確実に人生壊れました。いや、変わりました。初めてH.U.Rのライブ見たことは未だに覚えてます。大阪扇町DICE(今はパラダイス)って小さなライブハウスでパンパンに人が入ってたから全然バンドは見えなかったけど、そのサウンドにオレの体がフワッと浮きその刹那大きな金槌でバーンと殴られたような感動。あれは衝撃でした。後にも先にもありません、そんな事は。

その後、自分らのイベントに出演してもらった時には、リハーサルから楽屋、本番まで片時も離れなかったです。もうただのいちファンですね。それも一番近いところに陣取れるファンです。すいません。
特にH.U.Rと一緒に行った九州ツアーは語り草です。夜通し車を走らせて北九州に入ってサウナに泊まった時のこと、うちの北出が金目のものを全部すられた、盗難にあったのです!その時北出はそのサウナの定番アロハシャツ、半パンのいでたちで顔面真っ青にしながら「大丈夫、大丈夫」とオレらにか細い声で言いました。その北出は一生忘れることはないでしょう。その後、リハーサルと本番の合間に警察に行って盗難届けを出した帰り道、何かの糸がブチンと切れたのか、脳みそがひっくり返ったのか、「アハハ、チンコたってる、アハハ」、絶句です。そしてその日の黒崎マーカスのライブはかなりゴイスーなドラミングだったことは言うまでもありません。






With Happy Under River



あ、黒崎マーカスに呼んでくれたのはaeronautsの盟友バッファローデンチでした。こいつらもスゲーいいバンドで、初めて福岡でライブした時に対バンしたんだけどその時ドラマーのマッチャンは骨折しててアコースティックだったんだよね。でもいー歌うたうバンドで、結局打ち上げはバッファローとエアロだけで(fuzz picksもライブにはいたが)、かなり楽しい打ち上げでした。その打ち上げでオレは何人かいた博多っ子ギャルのうちで個人的タイプではないポッチャリな子の相手をしたんだけど、その子が数年後に会った時に激痩せしてものすごい美人になってたのは後の祭りでした。(もう人妻でした)


そういう感じで活動すると必然的に出演するライブハウスも変わるようになりました。そうです、やっぱり十三FANDANGOですね。ここしか考えられませんでした。いつだったかFANDANGOでのライブの時、ライブ直前池ポンの乗ってきたバイク(愛車SR)が車にふみつぶされてバッキバキに破壊されたことがありましたねぇ。うーん、十三っぽい。その日の池ポンもかなりゴイスーなステージングだったような・・・。まあそんなワイルドな土地にあるライブハウスなんですね。


そうこうしてるうちにオレら30才になろうとしてました。まだ売れないなー、まだ売れんかなー?とか思ってるうちに。仕事この頃オレはガソリンスタンド、リーダーはガテン系、北出はROUND1、池ポンはエロビデオ屋。さーて、人生どーしようか?何が面白いんかなー?って考えてたのですね。
それならさー!!!???


怒涛の最終章に続く・・・




 文 Gendai       
校正 Morikawa
| 管理人さん | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
15周年企画 エアロのひみつ Vol.1

どーもこんにちは、ゲンダイです。気づけばもう2011年ですよ。
今年はaeronautsが結成されて
15年目になるんですね。
いや、本当にビックリです。普段まったく過去を振り向かない男達なので、
そんなに長くやってきてたんだわ、あら、どーしましょ?ってな感じになっております。そんなに長いことやってきたんならここら辺で、まあ15年もやってりゃなんかたくさんネタあるんでしょ?ってことで
笑える感じで過去を流出させてしおうみたいなことをやりますね。ま、笑えりゃいーんですけどね。笑えないとツライ・・・。これから何回かにわたって皆様に愛され続けてきたaeronautsの物語を、それぞれの片手間に楽しんでください。



モリカワ氏のaeronauts年表によると1996年結成となってますね。
記憶は定かではないのですが大阪はアメリカ村のSUNHALLというライブハウスに初ブッキングを頼みに行った時、実はこの時点ではまだバンド名は決まってなかったんすよね。
だからオレが強引に適当に「ギャラクティカマグナム」でって一言で決まってしまいました。わはは。
まーそこからギャラクティカはライブに次ぐライブですよ。
前述のライブハウス、SUNHALLを中心にアホみたいにライブばっかやってました。
そー言えば厳密にいうとメンバーは実は一度だけ変わったんだったね。
bassが身長190ほどもある大男前・ミチタロウ(The Turtles)でした。
彼は二回だけライブをやった後「オレメジャーんなるから東京いくわ」という一言を残してバンドを去っていきました。その時の残されたオレら3人は「行ってらっさーい、オレら東京行ったら泊めてねー」と鳥山アキラ調のアホみたいな笑顔で送り出しました。ミチタロウとの思い出といえばやっぱり二回目のライブの楽屋、出番前に「あんまりオレの彼女イジめんといてや」と、北出と二人ありがたい説教をされたことです。それぐらいかな?でもその後オレらが東京によくライブ行くようになると本当に4人まとめて彼の高井戸の環八沿いの狭い1Kの部屋にたーくさん泊めてもらったんだよ。本当にイイやつなんです。泊まったついでに服もいっぱいもらって本当にありがとーん。


池ポンがメンバーになってバンドはやっぱり活気づきました。
最初「オレホンマに入れてもらえるのん?」とか言ってたような気がします。この頃のバンドのフライヤーは池ポンの書いたイラストでした。
フライヤーといえば、この頃行ったバイク旅行で宮城県は仙台・松島の看板の前で撮った池ポンの写真が最高にいい顔してたのでモリカワくんがその顔を編集、池ポンクーポンってのを作ってフライヤーの端っこにのっけてたなー。
3枚集めれば次のライブ無料!みたいな。


これのことですかね?


そしてギャラクティカの前半期を語るのに忘れてはならないのがこのころ作った「Highwayにのって」っていう曲ですね。
本当にキーが高い曲でしんどかったです、いやマジで。
でもこの曲で受けるコンテスト、オーディション、ズコズコ受かりましたモンね。はじめて自慢。
相当関西では評判していただきまして、ヤマハのコンテストでは浜松の豪勢なホテルに泊めていただきまして、そして審査員特別賞的な頑張ったで賞的な感じで高価なキーボードを頂いたりしまして、
後日そのキーボードをモリカワくんはどこぞに売り払ってバンド運営費にしていました。本当にありがとうございまして。





アメコミ調×中華風

そしてこの頃、関西の名だたるバンド達のメジャーへの登竜門だった「JUNGLE LIFE」のコンピレーションCDにこの曲で参加できたんですよね。ま、オレらにはバンド人生の羅生門だったわけですが。
この時にJUNGLEの社長・平井さん(現在はPJと周りに呼ばせている。パパ・ジャングルの意味らしい)に出会うわけです。出会ってしまうわけです。そのレコ発イベントで気合い入りまくりのオレらに司会の平井さんは「この子たちはいい子たちなんです!!」と紹介。全然カッコつきませんでした。
ミスターハイテンション平井さんには今でもお世話になっています。いい社長さんですね。

そういえばライブハウスでライブをやりながら、今はなき吉本興業の2丁目劇場にも出演してました。
今、東京でいえばルミネみたいなとこでしょうか?お笑いライブの合間にバンドがちょこっとライブするというような意味のわからんところに出てました。今テレビをつけたら必ず出てる芸人さんたちが若手として頑張ってました。週に2回か多いときで3回くらい出てたような気がします。機材車をNGKに停めてそこから少し離れた2丁目劇場まで、ミナミの繁華街のなかを楽器を台車に乗せてトロトロ歩きました。楽しいけどちょっぴり切ない感じがします。そのバンド担当のディレクターのなんとかいうおっさんがとんでその企画はなくなったような・・・





あ!この曲で(どの曲やねん、あ、Highwayに何とかね)で東京にも呼ばれたんですよ!しかも初めての!渋谷のタワレコのライブスペースで演奏しました。かなり物見遊山だったような気がします。この時機材車なんやったやろ?スカイライン?思い出せんな。タワレコでのことはあんまり覚えてませんが帰りに出来たばかりの新宿都庁を見にいったことは覚えています。あれ、タートルズのライブを見に新宿パワーステーション行ったのってこの時やっけ?どうやったかな、モリカワくーん!?
よくわかんないけど、パワーステーションではタートルズのLiveは間にあわずローリー寺西氏のLiveをタダで見れてホクホクでした。


とこの頃から東京を意識したバンドの動きになっていきました。
記憶に残ってるのは「月ガ微笑ムカラ」「夕凪」「scarecrow」とかいう曲をガンガン作ってたときかな?ちょうど北出が就職一年生(ま、一年で辞めさせた)。それでも週2のスタジオ!今考えると北出にとって拷問!北出が住んでたのは京都の実家だったのでそのうち一回は京都まで行ってリハーサル。大阪から1時間以上かけて3人で行ってたなあ、けっこう楽しかったなあ。
その頃大阪でのスタジオは出戸ABBY STUDIOってところですぐ隣にパンセホールってライブハウスがあった。まあ、オレから言わせてもらうと、オレの住んでたマンションからそのスタジオまではいつも道路が渋滞してていつも一時間くらいかかるのね。今じゃ考えられないくらい遠かった。でも音楽以外は生活的にヒマヒマだったんかな、全然平気やったもんな。

そのスタジオの店長が池ポンに8回くらい輪をかけたゴリラさんで、オレは初めて聞いた言葉を「ウホッ」って聞き間違えたくらいです。最初はスンゲーとっつきにくい人だったんですけど、一度そこでレコーディングしてからというものめちゃめちゃ仲良くなりました。うちの音楽を理解してくれたのでしょうか?それからはいろいろ融通きいてくれて本当に助かりました。
ミニマム的な思い出といえば、そのスタジオに行くとかなりの割合でそのスタジオの前にあったミスタードーナツを買っていたということです。一生分くらい食べました。






全然東京を意識してない文章になってきましたね。構いませんか。でもこの頃はオレとモリカワくんで深夜曲作り、そしてスタジオ、の毎日でした。あ、昼はバイトね。
曲作りしてた深夜の思い出といえば当時モリカワくんがやってた家庭教師の教え子(小学生)から修理してやるとの名目で持ち帰ったラジコンを、煮詰まった曲作りの休憩で近くの公園でブンブン走らせたこと。当時モリカワくんが飼ってた雌猫の「組長」のサカリに曲作りを中断させられたこと。
まだまだ話は尽きないですが、皆さんが飽きてこないうちにそろそろaeronauts(当時はギャラクティカ〜)の次の段階、関西快進撃的な話を進めましょう。



2011.1月某日 JUNGLE LIFE PJからのコメント

「やっぱり今の時代はギャラクティカマグナムでしょう!?
      でもaeronautsもね(笑)
 継続は力なり。美しい男のROCKですな」







文 Gendai

校正 Morikawa

| 管理人さん | 22:30 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
活動年表(1996~1999)
15周年企画
aeronauts 活動年表 (1996~1999)


15周年企画、まずは資料から
メンバー皆で遠い記憶の糸をたどって書いてみました。



1996


大阪市立大学軽音系サークル「Music Research」にて、松山弦大(Vo)、森川トモヲ(G)、北出家康(Dr)、島本道太郎(Ba)[The Turtles]の4人でバンドを結成。サークル内イベントで演奏出演。

1996.6
心斎橋SUN HALLにて初ライブ。バンド名は「ギャラクティカ☆マグナム

1996.9
心斎橋SUN HALLにて2本目のライブの後、島本の脱退が決定。理由はThe Turtlesメジャーデビューによる上京のため、同サークルより池本新(Ba)が加入。

アーム系列のロックバンドコンピレーションアルバムに参加。曲目は「メリーゴーランド」と「あの場所に」ちなみに、このコンピの前バージョンにはLOUD VOICEと快速バビロントレイン、DOG MAN(Vo松山弦大、Drums山本昇(The Turtles)が収録されている。

JUNGLE LIFEのコンピレーションアルバムに参加、曲目は「Highwayにのって」、PJこと平井社長と知り合う。


    1996年の出来事
     流行語 - 「自分で自分をほめたい」(有森裕子)
     「O-157」による食中毒が発生
     漫才師・横山やすし氏が死去
     PUFFY、シングル「アジアの純真」でデビュー


1997

当時に出ていたライブハウス
 ・心斎橋SUN HALL、天保山ベイサイドジェニー、光明アムホール、心斎橋MUSE HALL

吉本MUSICエージェンシーのオーディションに合格。ときに週2~3ペースで二丁目劇場にてお笑いライブの合間に演奏する。このころの先輩アーティストはプレクトラム、今週の山田太郎、SO WHAT、同期はBEANBAG、ミラクルズ

タワーレコード主催のDIG-UPオーディションに最終選考まで残る。東京タワーレコード渋谷店のライブスペースにてライブ審査。→ 結局落ちる。曲目は「Highwayにのって」

YAMAHA主催のコンテストのジャパンオープン〜で最終予選を通過し、浜松に最終選考。ゲストバンドは「プロペラ」、そこでギターを弾いていたのは権田タケシ氏(GRiP)


某オーディション企画にて審査員、深水マドカ氏と初対面。
『「Highwayにのって」は最高だけど他の曲もがんばれよ〜』と言われる。
メンバー一同の印象『面白いえべっさんやなぁ』
同じく審査員だった某レコード会社のディレクター氏の鼻毛の出具合があまりに気になって、それどころではなかった。(後日池本・森川談)


1997年の出来事
 流行語:たまごっち 
 北野武監督の『HANA-BI』がベネチア映画祭で金獅子賞を受賞
 香港のイギリス返還
 テレビ東京系のアニメ「ポケットモンスター」を見た子供750名以上が失神。


1998

大正のスタジオFREE PEOPLEの原エンジニアの元、「月が頬笑ムカラ」からなどをレコーディング。光明アムホールからのコンピレーションアルバムに同曲収録。

1998 夏
バンド初の遠征ツアーに出る
 ・名古屋Heart Land Studio
 ・渋谷deseo
 ・高円寺Show  Boat


Memo
ツアー前日の池本はフライヤー作成時にカッターで右手人差し指を深く裂傷。
翌日の名古屋は8ビート刻めず、翌日渋谷deseoではベースの音が出ないトラブル発生(15分間)。原因はベース(アクティブ)内部の電池切れ。


ビクターのA&Rチームが製作担当となる『月が微笑むから』のPVを南港のイベント広場にて撮影、その後イケメン・ディレクターは謎の失踪(笑)

企画イベント「Beaititude Rebel」を十三FANADNGOにて開催。


1998年の出来事
 流行語:だっちゅーの
 X−JAPANのHide氏が死去
 明石海峡大橋が開通
 和歌山市園部地区毒入りカレー事件
 日本の自殺者数が前年より8000人以上増加して3万人を超える



1999

梅田の歩道橋上で、小型発電機ジェネレイターを用いた大音量でのストリートライブをはじめる。CRAM-BOとともに毎週金曜日に開催。¥500のデモテープが路上でたくさん売れてメンバー皆驚く。差止めにくる警察官との追っかけ合いライブのスタイルを確立する。(笑)
調子にのって発電機と楽器を持って京都三条河原、京都駅前、姫路駅前、神戸おっぱい山公演などでストリートライブを試みる。所々で苦情と賞賛の嵐を舐める。

Memo
国立奈良公園内でもストリートライブ敢行。初めてのことのようで、職員さん対応に戸惑っている中、何の問題も無く、無事終了。
鹿の前で初めて演奏。


『夕凪』などを収めたデモテープを東京のレーベル・メーカー約60社に送る。返事が来たのは3件ほど。デモテープを録音したのは出戸のABBYスタジオ。

同じくABBYスタジオでレコーディング、「蛇」などを収録したデモテープ「COMING HOME」を発売。
『同曲の歌詞中の「蛇」とは男根(だったもの)を意味するものである』(後日、弦大談)

生前お世話になった、スタジオスタッフ小林氏のご冥福をお祈りします。


1999年の出来事
 流行語:ミッチー・サッチー
 『だんご3兄弟』のCDがヒット
 歌手・槇原敬之が覚醒剤取締法違反で逮捕
 スタンリー・キューブリック氏が死去
 大晦日に聖飢魔IIが解散


(つづく)
| 管理人さん | 19:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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